●短編読み物『切符』  僕はシゲミツさんから、いま完成したばかりの原稿を受け取った。  彼にとって、記念すべき第一作目である。 「完成おめでとうございます。持ち帰るまでまだ時間あるのでよろしければ 何か一言聞かせてください」  僕はメモ帳を取り出して、完成直後のリアルな感想を聞こうと思った。  記事になりそうなものは何でもメモするのが、もはや習慣になっていた。 「そうだな……少し長くなるかもしれないが、いいかな?」  どうぞどうぞ、と僕がうながすと、シゲミツさんは重たそうに口を開いた。  やりとげた≠ニいう達成感が、そこにはないように見えた。 「俺は根本的に人を思いやる事が出来ない人間なんだ。何か親切されても 『言わなくちゃ!』て自分に言い聞かせて、なんとかお礼の言葉をこぼせる 程度だ」  ちょっと意外なコメントに戸惑いながらも、僕は頷いて続きを待った。 「俺は自分が社会に必要のない人間だと思ってる。人を思いやれない人間 ってのは他人の為にエネルギーが注げないって事なんだ。働く気になんて とてもなれない。労働てのは言ってしまえば他人の為にエネルギー使う事 だからな。そういう事が、俺はできない。金の為だと割り切ってもだった。 でもしんどい事に、生きて行かなきゃいけない訳だ。そんな人間でも。なん てったって、自分の事だからな。困ったもんだ」  一呼吸置くように、シゲミツさんはコーヒーを一口飲んだ。  僕はその瞬間も、ペンとメモ帳を離さなかった。 「更に困ったことに、俺は人を思いやれないクセに非情にもなれなかった。 金が欲しければいくらでも方法はあったんだ。出会い系サイトで、サクラの 仕事をしてるヤツを一人知っている。そいつは月々30万以上稼いでいた。 他にもある。ネズミ講だとか架空請求だとか、お金が欲しければ、そっちの 手があったんだ。でも俺は嫌だった。人を傷つけ金を手に入れるなんて事 がね。不思議だろ? 人のこと、何とも思わない人間が、そんな事を考える なんて」 「それは多分、シゲミツさんにもちゃんと人を思いやる心があったという事 ですよ」  僕は正直に思ったことを言ってしまった。  余計なことを言ってしまうのは、僕の悪いクセだ。 「だとしても。だとしても、だ。それは『常識』の範囲だ。最低限の人情さ。 まあそれがあっただけでも感謝しなくちゃいけないがな。でもおかげで金に 苦労する事になった訳だ。働きたくない。詐欺もしたくない。そんなんじゃ なあ」  そして犯罪もしたくない。と、僕は心の中で付け足した。 「俺が原稿を書いたのは要は金の為だ。金がなくちゃ生活できないしな。 色々考えた結果、たどり着いた資金調達方法だ」 「作家というのはそういうものですよ。もちろん意識は人それぞれでしょう けど、結局は仕事です。お金を貰うために書くなんてのは、普通ですよ」 「いやいやそれは解ってる。別にそういう善い悪い≠フ話をしたいんじゃ ないんだ。俺は文章を書く時に限っては人を思いやってる気がするんだ。 『面白いものを書きたい』ってな。楽しませたい。それも一つの思いやりだ。 そして、俺にできる唯一の思いやりって訳だ」  なるほど、と僕は思った。彼はなるべくして作家になったんだろう。  しかし、そのわりには彼はさっきから曇った表情を浮かべている。 「シゲミツさんは天職を見つけたんですよ。良かったじゃないですか」 「そんなこと、解らないだろ」  何よりも一番感情のこもった一言だった。  僕はようやく理解した。彼の中の不安を。  いま僕が手にしているのは、彼の最後の希望なのである。  でも僕ができることは、この原稿を会社に持って行く事。それだけだ。 「そろそろ、会社に戻らないといけません」 「良い報告を待ってるぞ」 「僕は次回作を待ってますよ」  できるだけさらりと、僕は言った。  シゲミツさんはその意を悟ったのか、ふふんと笑って机の上を指さした。 「もう書き始めてるさ」      外はじめじめと、梅雨明けの湿気を保っている。  乗り込んだ電車の中で、僕はメモを取り忘れたことを思い出した。  自分勝手なシゲミツさん。  もし、僕も人のことを思いやらない人間だったらどうするんですか?  原稿を会社に持って行かず、そこらへんに捨てるかもしれないんですよ?  もちろん僕はそんなことをしない。今日中に新人作家のシゲミツの原稿を 持って会社に行く事が、僕に与えられた仕事だ。  そうやって僕はお金を貰い、生活をしているのである。  仕事と金が結びついたところで僕らの信用は繋がっている。新宿行きの 切符に書かれた数字のように。  でも彼は、それとは違うところで人を信じていることを、僕は知っている。    おわる。