●短編読み物『あいつが顔を描いたのさ』  クミコは満月の夜になると、決まって屋根の上に登った。  そこで持ち込んだ缶ビールやら、おつまみやらで簡単な月見をするわけだ。  理由はもう一つある。 「相変わらず、満月が好きだな」  柿ピーがなくなった頃、『お父さん』が話しかけてきた。  ここにいると、いつも隣にやって来て、話相手をしてくれる。 「今日が皆既日食だったなんて、知らなかった。なんだか、ガッカリ」  空になった缶ビールを潰しながら、クミコは言った。 「6年振りの現象に、ガッカリはないだろう」 「私は、貴重だからって有り難がったりはしないの。いつも見ない満月を、 特別な現象だからって騒ぎ出す人たちの方が、よっぽど失礼だ」  そう言って、5本目の缶ビールを一気に飲み干した。  月は、いつもとは違う赤銅色を放っている。それに釣られて、小さなざわ めきが風に運ばれて聞こえて来る。 「素敵な月じゃないか、いつも通り」  そう言って『お父さん』は、自分で持ち込んだウイスキーを一口飲んだ。 「ちょっと姿が違うだけさ。お父さんがいつも言ってきただろう? 素敵な ものというのは、変わらないことを言うんだって」  それは一種のおまじないの様に、クミコの頭の中で繰り返される。  変わらないことを言うんだって。 「だったら、あの人たちは月そのものを素敵だとは思ってない訳だ」 「そうやって卑屈になるのはいかんなあ」 「私は何百回も見てきた。静かに浮かぶ満月を。そういう気持ちを、汚され た気分になる」  クミコにとっては、いつだって、満月は特別だ。 「お父さんにだって、満月は特別なものさ。クミコが生まれた日、ちょうど 満月が照らしていたからな。だからクミコも満月も、お父さんにとっては似 たものなんだ」 「私は人間だし、満月みたいに、いつも丸かったりはしない」 「いやいや、クミコはいつだって変わらず良い子さ」 「万引きしたり、誰かのバイクの後ろに、またがったりしてたかもしれない よ?」  クミコがそう言うと、はっはっはっと、『お父さん』は大声で笑った。  それを聞くと、なんだか肩の力が抜けてしまう。  素敵なのものは、変わらないものを言うんだ。もう一度、クミコは心の中 で繰り返した。   『お父さん』は、いつだって変わらなかった。  今だって、変わらずそこに居る。 「そろそろ、時間だな」  ウイスキーのボトルを抱え、『お父さん』は立ち上がった。 「待って!」  クミコは急いで呼び止めたが、そこに『お父さん』の姿はなかった。  空になった柿ピーの様に、それは戻って来ない。 「私が満月を好きなのは、落書きがされているからだよ……」  小さな声で呟くと、また『お父さん』の笑い声が聞こえた。 「本当は、私。変わりたい……」  満月が、特別なものになった日から、クミコは自分の時間が止まって いる気がしていた。    だけれど、いつだって帰って来てしまう。同じ場所、同じ時間に。  そして、同じ涙に。 「そろそろ、皆既日食が終わるよ」  また『お父さん』の声がした。  顔を上げると、月が少しずつ元の色を取り戻していた。  最初は三日月。次は半月。やがて満月へと形を変えていく。 「ほら、元通りの満月だ」  クミコは立ち上がって、それを眺めた。  夜空に浮かぶそれは、間違いなく満月だった。 「私が生まれた時も、あんな満月だったのかな?」  クミコの問いに、答える声はなかった。  でもその事に、もう心を痛めたりはしない。  月はいつも通り、空からこの場所を照らしている。  おわる。