●短編読み物『逃走』 「どうしてそんなに、ゆっくり歩くの?」  通学中、よく弟は私にそう言った。 「はやく行かないと遅れちゃうよ」  急かされながらも、私は頑なに歩調を変えなかった。ゆっくり着くほど望 ましい事だったからだ。  それに対して弟は、不満そうにしながらも、何故か私と一緒に遅刻した。  まだ小学生だった頃の話だ。  中学に入っても、私の歩調は遅いままだったが、弟とは歳が3つ離れてい たので、卒業まで誰にも文句を言われずに済んだ。  しかし私が高校に入り、髪を染めた瞬間、今度はそこに文句を言ってきた。 「どうして髪を染めるの?」  校則違反だった。弟はそのことを言いたいようだったが、実際学校では黙 認されていたので、私はいままで通り聞き流した。  でも弟の不満はもう一つあった。 「どうして女子校に行ったの?」 「いい加減にしろ」  私は率直な意見を伝えた。  高校3年生になって、早数ヶ月。私は進路の事で悩みを抱える周りの人た ちを横目に、今日も学校をサボって公園をふらついていた。  朝の公園にはささやかな活気が満ちている。体操をしているおじさん。犬 の散歩をするおばさん。ベンチに座り、談笑しているおじいさんたち。  制服を着ている私だけが、その場から浮いている気がしたが、もう慣れて しまった。  お気に入りのブランコに腰を下ろし、タバコを一本取り出した。  もう去年の事だ。  弟は塾の帰りに変質者に刺され、そのまま亡くなった。唐突すぎる死だっ た。  犯人はいまだに捕まっておらず、両親はいまも血眼になって足取りを追っ ている。  家族の中で、私だけが以前と変わらぬ日々を送った。もう、文句を言う人 はいない。  次第に私は、タバコを吸い始めるようになり、学校もサボり始めた。   短くなったタバコをその場に落とし、足でもみ消した。いつもそのままに しているが、毎日ブランコの下は綺麗に掃除されている。私のいない間に、 誰かがゴミを拾っているらしい。きっと、文句を言っている事だろう。私に 聞こえないところで……。  犬が一匹、こちらにやって来た。毛並みの良い柴犬だった。ハッハッと舌 を出しながら、なんの躊躇もなく私の目の前に座り込んだ。  首輪をしていたが、周囲に飼い主らしき姿は見あたらない。リードをして いないところを見ると、恐らく近所の犬だろう。離し飼いとは無責任な。  追い払う理由もないので、とりあえず頭を撫でまわした。犬は目を細めな がらも、相変わらずハッハッと舌を出している。  試しに「お手」と言ってみたら、差し出した手を舐められた。 「あざといヤツだ」  カバンの中からポッキーを取り出すと、一本分け与えた。犬はしばらく匂 いをかいだが、結局口にしなかった。 「お腹空いてんじゃないのか?」  別のお菓子も渡してみたが、食べなかった。ただの人懐っこい犬らしい。 もう一度頭を撫でると、また目を細めた。  ――大好き。  突然、声が聞こえた。  驚いて周りを見回したが、近くに人の姿は見あたらない。……まさか犬の 言葉でも聞こえたのだろうか。  もう一回撫でて見たが、ハッハッと舌を出しているだけだった。  幻でも聞こえたか?  ――大好き。  もう一度、それははっきりと聞こえた。  自然と、目のまえの犬と見つめ合った。犬のまるい瞳のなかに、私の顔が 写り込んでいる。  ……よしてくれ。私は好かれるような人間じゃないんだ。  ブランコから立ち上がると、犬も一緒に腰を上げた。この先の行方を探る ように、私の顔をまだ見つめている。 「ついてくるなよ」  そうとだけ言って、私は駆け足で公園をあとにした。犬は付いて来なかっ た。  走り出したところで、特別向かう場所はなかった。学校にも、家にも行く 気はない。ただ、バレないように。バレてしまわないように、私はしばらく 走り続けた。     おわる